朝鮮人労働者の慰霊碑を巡る問題〜正義と正義の衝突〜

2024年2月1日


 高崎市の県立公園「群馬の森」にある朝鮮人労働者の慰霊碑の撤去問題。この問題は碑の設置者VSヘイターという正義VS悪の単純な構図ではなく、何を守るべきかという異なる正義同士の軋轢として考える必要がある。多様性が尊重される社会とは何かを考える上で非常に面白い題材なのでちょっと取り上げてみたい。

  双方の主張を見ても、公園の秩序と朝鮮人労働者の慰霊。どちらも大事なことであり、それを守ることは正義と言っても問題ないだろう。ただどちらに重きをおくかでこの問題の見え方が変わってくる。

 まず県と行政側。慰霊碑の設置は当時の議会が満場一致の賛成で可決されており、その目的自体は県も認めているところ。しかし彼らは公園管理者。一番に守るべきは市民の安らぎの空間であり公園内の秩序である。騒ぎを起こすのがネトウヨとか碑の設置者なのかは関係なく、守るべき優先度は、公園の秩序>朝鮮人労働者の慰霊になる。碑を設置する時に騒動になりそうな文言については使わないと合意したのは、その文言に問題があるからではなく、その文言を良しとしない勢力につけ込まれ、騒動に発展することを防ぐためだ。碑の設置者がその合意を破り、ヘイターにつけ込まれるような発言をしてしまった以上は庇えないし、碑よりも公園の秩序を守ることが優先される。

 一方で、碑の設置者側が守りたいのは慰霊碑自体であり、その目的は朝鮮人労働者の慰霊である。彼ら自身は政治問題にしたいという意識はなかっただろうし、強制連行の言葉が問題視されてから、実際に彼らは公園内では集会を行なっていない。騒動になることは不本意だったはずだし、公園の秩序を守る努力もしてきた。しかし、いざ碑が撤去されるとなると、彼らの守るべき優先度が、朝鮮人労働者の慰霊>公園の秩序。であることが明確になる。

 もちろん公園の秩序も朝鮮人労働者の慰霊もどちらもなんら悪いものではなく、守られるべき正義であることに疑いの余地はない。ただ立場によって優先度が違う。それだけのことなのだ。

 二つの正義が衝突し当事者同士の話し合いでどうにもならない時、委ねるべきは司法しかない。そして司法は今回は行政側を支持した。朝鮮人労働者の慰霊が軽視されたわけでも、差別が司法に認められたわけでもない。二つの視点の異なる正義のどちらかをやむをえず選ばなければならない。地裁では判断が別であったように、それは難しい判断であったと思われる。

 もし我々の目指す社会のひとつが”多様性が尊重される社会”であるならば今回のようなケースは必ず起こる。

 多様性が尊重される社会というものは一つの価値観で統一された社会ではない。時に、正義と正義が衝突し、自分たちの正義が退けられた時に、それを受け入れる必要がある社会だ。自分たちの正義を周りに押し付けるのは、その正義がどんなに崇高なものであっても認められる行為ではない。自分たちは正しい。しかし相手も正しい。そんな矛盾を包含した上で、多様な価値観を持つ人たちが共生する。難しいがやりがいのある社会、すでに今の我々の社会はそのように変容しつつある。

 慰霊碑の撤去に反対する人たちが声をあげることにはなんら反対しない。高裁、最高裁が認めたのは行政が「慰霊碑を撤去しても良い」ということであって、「碑を撤去せよ」ではない。行政が考え方を変えるなら、それもまたひとつの解決だ。ただ、悪様に行政を非難し、異なった正義を認めようとしない今の撤去反対派の態度は多様性を認め合う社会のそれではないということだ。

日記

Posted by くらっきー