Change.Orgの「大阪高裁の“医大生による性的暴行”逆転無罪に対する反対意思を表明します。」って署名活動に集まった署名がすでの9万筆越え。いろんな人がこの署名活動の問題を指摘してるんだけども、ワイが一番に思うことは。。。
まずは判決文全部読め!
SNSは自分の思いや感想をめいめいが好き勝手につぶやく場所なので、ポストのひとつひとつにエビデンスや明確な根拠なんてものは必要はない。そんなめんどくさいことはやってられないし、SNSは日常の会話の延長である。
ただし、大前提として事実を正確に理解しなきゃいけないことってのはあると思う。
「デマはいけない」これは誰にでもわかることだし、日常の会話の中でもデマを流していれば咎められる。そして判決文を全部読まずに判決を間違いだと決めつける行為はデマに等しい行為ではないのだろうか。判決文の中には判決の根拠が詳細に示されており、それに反論するのならまだわかる。たが「無罪」という判決と断片的な判決文の一部だけで「裁判官を訴追すべし」とする行為に何の正当性があるのだろう。詳細を知らずしてその無罪が妥当かどうかなんて誰にもわからない。
司法の判断というものは素人には非常にわかりにくい。正直、なんでそんな判決になるのかわからない裁判なんていくらでもある。最近でも、紀州のドンファン死亡事件、猪苗代湖のボート事故など判決だけを見れば「なぜ無罪?」としか言いようがない。だが、そこには「疑わしきは罰せず」という憲法に保障された法の論理がある。法の専門家ではない、我々に求められるのは断片的な情報に惑わされない「冷静さ」に他ならない。
だが、一方でこの当たり前とも思える「冷静さ」を批判する人たちも存在する。
不正義に対して怒りを感じない「冷静さ」など必要ない。それは人間として心を殺しているも同然という主張のようだが、これは突発的に振るわれる暴力を正当化する人たちと何が違うのだろうか。
ワイらが怒りに任せて拳を振り上げたりしないのは主義信条としての暴力の否定であると同時に、怒りでその主義信条を忘れない冷静さである。
そして暴力とは単純に身体に危害を加える力だけではない。「言葉の暴力」などの表現がもあるように、正当性に欠き他人の意思を強制的に奪う力は暴力である。
怒りを感じて突発的に振るわれる拳と怒りを感じ冷静さを欠いたまま真実を確かめることなく、集団によって行使される圧力。これは本質的に同じと言っていいだろう。
もちろん、署名自体が暴力とまでは言わない。ただ判決文の全文を確認せずに条件反射のように行われる署名活動はもっとも大事な正当性に欠いている。
例えば、外国人による犯罪が起こりそれが無罪になりました。
これに対し、判決文を確認せずに同じような署名運動が起こった時に「冷静さ」は必要ないと言えるだろうか。
不当な差別につながりかねないし、冷静にその影響を考える必要がある。
今回も同様で裁判官に対する訴追請求について影響を考える必要はないのだろうか?
裁判官の職権の独立は憲法が保障したものであるが、それに対して圧力をかけることの正当性は?
今回の件で署名をした人たちも差別主義者も暴力男も、その本質において実際はほとんど差がない。
興味深いのは過去にDVの被害者であると主張する女性たちがこの「怒りをそのままぶつけろ」という主張に賛同していることだ。虐待を受けた子供が大人になった時に自分の子供に虐待をするように、暴力に虐げられたものは暴力によって他人を虐げる側に回る。おそらく過去に自分が屈服した暴力をどこかで肯定しているのだろう。
これはなかなかに怖いことではないかと。。。
くらっきー
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